島根県は奥出雲町でダビデ像やビーナス像を公園に飾ったら、子どもが怖がるとか、下着をはかせて欲しいというような意見がでたんだそうです。一流の芸術品になんてことを言うんだ的意見と相まって論争になっているようで、なかなか興味深いです。
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僕は一応、東京造形大学という美術大学を出てまして、比較造形という分野を専攻してました。なんだか聞きなれない言葉なんですが、簡単に言うと美術と一般社会をどうつなぐか考える、みたいな分野です。学芸員の資格とか取る人が来てるところです。僕は取りませんでしたが。短い期間ですし小さいお店ではありましたが、現代作家の作品を販売するギャラリーなんかを自分で立ちあげて運営していたこともあります。美術の歴史に詳しいかと言われれば正直そんなこともないんですが、それでもこの話題にはかなりビビッときます。
これは少なくとも、一流の芸術なんだからそんなこと言ってはいけない、で一蹴していい話ではありません。そもそもなんでダビデ像が全裸なのかというところから遡って、お話してみたいと思います。ダビデのチンコ周りは、ちょっと面白いのです。
なんでチンコがブラブラなのか
ダビデ像が公園にあって何が嫌かって、それは単純で、全裸の男性だからでしょう。しかもですよ、チンコがブラブラしているんですよ。いえ、正確には彫刻ですからブラブラはしていないんですが、今にもブラブラしそうな迫真のチンコなんです。流石ミケランジェロ、いい仕事しています。(件の奥出雲町にあるのはエンツォ・パスクイニという方が作ったレプリカですが。)
なんで裸なのかと言いますと、それは古代ギリシャの肉体賛美的理想を引いついで制作しているからであるというのが一般的な見解です。(他にも色々ありますけど。ミケランジェロがホモだったからじゃないかとか。)
ちょっとだけ解説すると、古代ギリシャの時代は人間は神様が作った芸術品で、その姿は美しいという文化があったんですね。裸でオリンピックしてたり、全裸サイコーだったんです。後にキリスト教によって裸は恥ずかしいものだということにされました。例のあの、リンゴ食べて知恵がついたら裸ヤバイってなったというあの話。で、絵画は人間の裸じゃなくて神様の姿を描くようになってたんですね。
それが、ミケランジェロの時代にルネッサンスという運動が起きて、「人間復興」だと言って、また裸の美しさを描いてしまおうという流れがくるんです。ルネッサンスというのは、復興とか、再生とかいう意味で、古代ギリシャ、ローマ時代の価値観を復興させてたんです。で、裸のダビデ像もそんな歴史的な流れの中で誕生しています。
ミケランジェロは医学的な知識も深かったと言われ、そういう意味でも高い完成度で人間の体を再現していて、肉体賛美的作品の最高峰として歴史的に高い評価を得ています。
ダビデ像は包茎じゃねーか! という論争
ダビデ像にパンツをはかせるかどうかという論争が現代に起きていて面白いなあと思うのは、この像は他にも、チンコ周りの論争が起きているんですよね。それもなんと、包茎論争。
正確には、割礼されていない、ということなんですが。割礼というのは、男の人の陰茎の包皮を切断することで、現代的に言えば包茎手術です。と言っても、普通割礼という言い方をした場合は、宗教的な背景を伴った儀式を指すことの方が多くて、そういった儀式をする民族の1つとしてユダヤが挙げられます。ダビデというのは、旧約聖書に書かれるユダヤの王様なので割礼してるはずなんですけど、ダビデ像のチンコは割礼の跡がありません。
なので、ダビデ像は聖書にもとづいた像ではないじゃないか、みたいな論争があるわけです。この議論には、古代ギリシャの肉体賛美の理想を追求するという考え方からすると、神様が作った創造物に手を加えるのはおかしいということになるので、あえての包茎像にしたんだろう、なんていう意見があったりします。つまり、キリスト側なの? 古代ギリシャ側なの? みたいな、対立も見え隠れするんですよ。
肉体賛美と聖書と出雲の皆様
そんなダビデ像にですよ、パンツをはかせようというのはすごい発想です。だって、本来の作品の鑑賞という意味では、それだけはやっちゃいけないことですからね。説明した通り、肉体賛美の理想を追求したと評価が高く、神様が作った人間の体をその美しいままの姿で像にしているわけで、安易にパンツはかせるなんていうのは冒涜意外の何者でもありません。
しかもですよ、割礼の跡があるかどうかでこれは聖書にもとづいた像なのか、なんて論争があるのに、パンツをはかせたら隠れちゃうじゃないですか! そこ大事なとこなんですよ! チンコだけに!
ただしですね、だからパンツをはかせちゃいけない、このまま公園に飾るべきだというのはちょっと違うと思うのです。というのは、神様が作った人間をそのまま美しい姿で像にしようという人達がいたことと、聖書にもとづいた人物の像を作って欲しいという人達がいたことと、全裸の男性は恥ずかしいという人が現代にいるということは、同じくらい重要なのです。
その時代、その地域に、文化風習があって、それに寄り添うように美術、芸術もあるわけで、西洋の古典の常識を現代の日本に持ってきてマッチしないというのは当然なのです。それを、西洋の古典が正しい、あんたらは教養が足りない、というのは違うんじゃないかと思うわけです。パンツをはかせるかどうかはともかく、嫌がっている人が多いなら少なくとも美術館に飾るべきだと僕は考えます。
美術館というのは、そういう時代や土地の文化ギャップも含めて、鑑賞することができる施設のはずです。でも、公園は違いますよね。
パンツをはかせたら現代美術になりますよ
世間で巻起こっている議論からすると余談かもしれませんが、もし、この話を聞きつけて、どこぞの芸術家さんがパンツをはいたダビデ像を作って設置したら、間違いなく現代美術として認められるなあ、なんて思ったりします。論争はさらに激化するでしょうけど。
現代美術というものは既に、見た目の美しさが優れているかどうか、みたいな話は終わっちゃっていて、作品の持っている意味を重要とします。
肉体賛美の理想とされ、割礼の跡で論争が起きているダビデ像のレプリカが、出雲という日本の神様が集まる土地に設置された上、住民たちの要望でパンツをはかせたとなれば、それはもう時空を超えた壮大なストーリーがかいま見えるわけで、これは紛れもない現代美術であると言えます。西洋古典と現代日本のギャップ、宗教観の無さや恥の文化、西洋古典芸術に対する価値観などなど、現代日本の色んなものがあらわになります。
こうした価値観の対立をパンツ1枚はかせただけで表現したとなれば、普通に海外から現代美術フリークな方々が見に来るくらいのインパクトがあるかと思います。逆に言えば、この論争はそれくら美術的に本質をついた話であると言うことができます。なので、大変に興味深いのです。
ただし本当にパンツダビデを制作したら、これはダビデ像に対する冒涜だ! という人達の声も大量に流れこんできますので、それだけはお気をつけ下さい
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